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== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
=== HAL研入社~星のカービィ ===
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=== ハル研入社~星のカービィ ===
 
1990年の5月頃<ref name="kirbyconcert1" />、敵を利用するアクションゲームを作ろうと思い立ち、後に『星のカービィ』となるゲームの企画書を書く<ref name="C_VOL17" />。その後『突撃!ポンコツタンク』のアニメーションや仕様の設計<ref name="PostReturn014" />などを経てから開発に着手し、1992年に『星のカービィ』は発売、全世界累計500万本以上を売り上げる大ヒットとなる。桜井はこのゲームで初めてディレクターを務め、更に企画と大部分のグラフィックを担当した<ref name="C_VOL17" />。
 
1990年の5月頃<ref name="kirbyconcert1" />、敵を利用するアクションゲームを作ろうと思い立ち、後に『星のカービィ』となるゲームの企画書を書く<ref name="C_VOL17" />。その後『突撃!ポンコツタンク』のアニメーションや仕様の設計<ref name="PostReturn014" />などを経てから開発に着手し、1992年に『星のカービィ』は発売、全世界累計500万本以上を売り上げる大ヒットとなる。桜井はこのゲームで初めてディレクターを務め、更に企画と大部分のグラフィックを担当した<ref name="C_VOL17" />。
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=== 星のカービィ 夢の泉の物語~スーパーデラックス ===
 
=== 星のカービィ 夢の泉の物語~スーパーデラックス ===
1992年6月、不動産投資の失敗などによる深刻な経営不振のために和議申請をしたHAL研究所は、事業をゲームソフト開発に一本化し、事業内容をそれまでの「広く浅く」から「じっくり練ってモノを出す」方針に転換、「今後発売するソフトは全てミリオンセラーを目指す」という目標を打ち立てた。その新生HAL研究所が最初に出すソフトとして、勢いのあるカービィの続編が選ばれた<ref name="NOM_dreamdx_tanimura" />。
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1992年6月、不動産投資の失敗などによる深刻な経営不振のために和議申請をしたハル研究所は、事業をゲームソフト開発に一本化し、事業内容をそれまでの「広く浅く」から「じっくり練ってモノを出す」方針に転換、「今後発売するソフトは全てミリオンセラーを目指す」という目標を打ち立てた。その新生ハル研究所が最初に出すソフトとして、勢いのあるカービィの続編が選ばれた<ref name="NOM_dreamdx_tanimura" />。
    
スーパーファミコンが発売されて3年が経っている中でファミコンで『カービィ』の新作を制作することを指示された桜井は、ハードの終焉期におけるユーザーの大半は既にゲームに慣れていると考え、前作同様にゲーム初心者に優しい作りでありながら上級者でも楽しめるようにすべく、"初心者と上級者の同居"をテーマとし、[[カービィ]]にコピー能力を導入した<ref name="topics_sdx" /><ref name="NOM_miryoku_03" />。これにより、初心者は前作同様に「すいこみ」と「はきだし」の基本動作だけでも遊べつつ、上級者は多彩なコピー能力を自由に選んで幅広い遊び方ができるようになった。この"初心者と上級者の同居"というテーマは、後の彼が手掛けるゲームにも受け継がれている。また、一般的なゲームコントローラーのボタンの多さが初心者にとっつきにくくさせている要因と考えた桜井は、初めてゲームをする人のためにボタン1つで遊べるゲームモードを導入した<ref name="C_VOL15" />。このようなゲームモードは、以降の彼が関与したカービィ全てに導入されている。
 
スーパーファミコンが発売されて3年が経っている中でファミコンで『カービィ』の新作を制作することを指示された桜井は、ハードの終焉期におけるユーザーの大半は既にゲームに慣れていると考え、前作同様にゲーム初心者に優しい作りでありながら上級者でも楽しめるようにすべく、"初心者と上級者の同居"をテーマとし、[[カービィ]]にコピー能力を導入した<ref name="topics_sdx" /><ref name="NOM_miryoku_03" />。これにより、初心者は前作同様に「すいこみ」と「はきだし」の基本動作だけでも遊べつつ、上級者は多彩なコピー能力を自由に選んで幅広い遊び方ができるようになった。この"初心者と上級者の同居"というテーマは、後の彼が手掛けるゲームにも受け継がれている。また、一般的なゲームコントローラーのボタンの多さが初心者にとっつきにくくさせている要因と考えた桜井は、初めてゲームをする人のためにボタン1つで遊べるゲームモードを導入した<ref name="C_VOL15" />。このようなゲームモードは、以降の彼が関与したカービィ全てに導入されている。
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1993年、新生HAL研究所が一丸となって作り上げ発売した[[カービィシリーズ]]2作目『星のカービィ 夢の泉の物語』は、ハードの終焉期であったのにもかかわらず、ファミコン最後のミリオンセラーとなった<ref group="注釈" name="million" />。
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1993年、新生ハル研究所が一丸となって作り上げ発売した[[カービィシリーズ]]2作目『星のカービィ 夢の泉の物語』は、ハードの終焉期であったのにもかかわらず、ファミコン最後のミリオンセラーとなった<ref group="注釈" name="million" />。
    
1996年には『星のカービィ スーパーデラックス』のディレクターを務めた。当時はクリアまでに多大な時間を要する重厚長大なゲームが主流であり、本作はそのような風潮へのアンチテーゼとして、ボリュームは少な目で趣が異なる7種類のアクションゲームと2種類のミニゲームを用意する"オムニバス形式"で構成し、ユーザーは好きなものを選んで手軽に小さな達成感を味わえるようにした<ref name="topics_sdx" />。また、カービィのコピー能力でできるアクションを増やし、前作『夢の泉の物語』から更に"初心者と上級者の同居"を推し進めた。また、本作品の企画前には宮本茂から「ふたり同時プレイへの対応」をリクエストされており、その実現として"ヘルパーシステム"が導入された<ref name="topics_sdx" />。後の『[[スマブラX]]』の「[[亜空の使者]]」ではこれに近い形のシステムが搭載されている。
 
1996年には『星のカービィ スーパーデラックス』のディレクターを務めた。当時はクリアまでに多大な時間を要する重厚長大なゲームが主流であり、本作はそのような風潮へのアンチテーゼとして、ボリュームは少な目で趣が異なる7種類のアクションゲームと2種類のミニゲームを用意する"オムニバス形式"で構成し、ユーザーは好きなものを選んで手軽に小さな達成感を味わえるようにした<ref name="topics_sdx" />。また、カービィのコピー能力でできるアクションを増やし、前作『夢の泉の物語』から更に"初心者と上級者の同居"を推し進めた。また、本作品の企画前には宮本茂から「ふたり同時プレイへの対応」をリクエストされており、その実現として"ヘルパーシステム"が導入された<ref name="topics_sdx" />。後の『[[スマブラX]]』の「[[亜空の使者]]」ではこれに近い形のシステムが搭載されている。
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=== スマブラ64~宣伝活動 ===
 
=== スマブラ64~宣伝活動 ===
 
{{see also|ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ#開発経緯}}
 
{{see also|ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ#開発経緯}}
HAL研究所に入社以降ずっと[[カービィシリーズ]]のディレクターを担当していた桜井だったが、『スーパーデラックス』完成後に初めて違うことをすることを許可され、『[[ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ]]』を手掛ける。
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ハル研究所に入社以降ずっと[[カービィシリーズ]]のディレクターを担当していた桜井だったが、『スーパーデラックス』完成後に初めて違うことをすることを許可され、『[[ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ]]』を手掛ける。
    
『スマブラ』は最終的に初代『星のカービィ』以上の大ヒットとなったが、発売前後はダメージ蓄積などの前例の無いシステムの理解がされなかったり、キャラクターに頼った底の浅いゲームという誤解を受けることがあって、評判が非常に悪かった。桜井は悪評を払しょくするため、自らがスマブラを解説する公式WEBサイト『[[スマブラ拳!!]]』を開設する等して、ユーザーに対する認知・理解のための活動を行った。そのような活動はその後のゲームでも行われている。
 
『スマブラ』は最終的に初代『星のカービィ』以上の大ヒットとなったが、発売前後はダメージ蓄積などの前例の無いシステムの理解がされなかったり、キャラクターに頼った底の浅いゲームという誤解を受けることがあって、評判が非常に悪かった。桜井は悪評を払しょくするため、自らがスマブラを解説する公式WEBサイト『[[スマブラ拳!!]]』を開設する等して、ユーザーに対する認知・理解のための活動を行った。そのような活動はその後のゲームでも行われている。
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2003年からはゲーム雑誌『週刊ファミ通』でコラム『桜井政博のゲームについて思うこと』を連載開始。これは今も続いている。
 
2003年からはゲーム雑誌『週刊ファミ通』でコラム『桜井政博のゲームについて思うこと』を連載開始。これは今も続いている。
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2003年の発売の『カービィのエアライド』は、桜井がHAL研究所で最後にディレクターを務めたゲームとなった。かつて『エアライド』は『[[スマブラ64]]』よりも前からニンテンドウ64用ソフトとして開発が進められていたが一旦開発が中止になり、その後ゲームキューブ用として開発が再開したものの、13ヶ月経ってもマシンが一台も動いていないという状況になっていた。そこで当初『夢の泉デラックス』同様に監修という立場から本作に関与していた桜井が開発の遅れからディレクターに就任し、それから4ヶ月で完成させた<ref name="cedec2012" />。
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2003年の発売の『カービィのエアライド』は、桜井がハル研究所で最後にディレクターを務めたゲームとなった。かつて『エアライド』は『[[スマブラ64]]』よりも前からニンテンドウ64用ソフトとして開発が進められていたが一旦開発が中止になり、その後ゲームキューブ用として開発が再開したものの、13ヶ月経ってもマシンが一台も動いていないという状況になっていた。そこで当初『夢の泉デラックス』同様に監修という立場から本作に関与していた桜井が開発の遅れからディレクターに就任し、それから4ヶ月で完成させた<ref name="cedec2012" />。
    
桜井は当時のレースゲームの多くがより優れたタイムを出すために決まったコーナーを決まったルートで走ることを要求しマニア向けになりつつあることに抵抗を感じており、『エアライド』を担当するにあたって、彼なりの観点でレースゲーム、もとい、乗り物ゲームを作ることにした<ref name="C_VOL13-14" />。これは特に「シティトライアル」モードに色濃く反映されており、遊び方が強制されず、アドリブ性を楽しむことができるようになっている。また、『夢の泉の物語』からボタン1つで遊べるゲームモードを模索し、ミニゲームとして導入してきた桜井だが、本作ではメインのゲームがボタン1つで遊べるものとなっている(スティック操作は必要)。
 
桜井は当時のレースゲームの多くがより優れたタイムを出すために決まったコーナーを決まったルートで走ることを要求しマニア向けになりつつあることに抵抗を感じており、『エアライド』を担当するにあたって、彼なりの観点でレースゲーム、もとい、乗り物ゲームを作ることにした<ref name="C_VOL13-14" />。これは特に「シティトライアル」モードに色濃く反映されており、遊び方が強制されず、アドリブ性を楽しむことができるようになっている。また、『夢の泉の物語』からボタン1つで遊べるゲームモードを模索し、ミニゲームとして導入してきた桜井だが、本作ではメインのゲームがボタン1つで遊べるものとなっている(スティック操作は必要)。
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=== HAL研究所退社~メテオス ===
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=== ハル研究所退社~メテオス ===
2003年9月末、13年間勤めたHAL研究所を退社し、以降はフリーランスのゲームクリエイターとして活動をしていく。同時期、山梨から東京に移住。移住先の住居は事務所も兼ねていた<ref name="C1_p71" /><ref group="注釈" name="sakuraioffice" />。フリーになったことで、メーカー、学校、出版関連などから軽い仕事を請け負い、その中でもゲーム開発に関わるものでは、実践的な調整案やアイデアを出す"コンサルティング"のような仕事を行うようになった<ref name="C_VOL37" />。また、日本ゲーム大賞(旧・CESA GAME AWARDS)の審査員を務めるようにもなった。
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2003年9月末、13年間勤めたハル研究所を退社し、以降はフリーランスのゲームクリエイターとして活動をしていく。同時期、山梨から東京に移住。移住先の住居は事務所も兼ねていた<ref name="C1_p71" /><ref group="注釈" name="sakuraioffice" />。フリーになったことで、メーカー、学校、出版関連などから軽い仕事を請け負い、その中でもゲーム開発に関わるものでは、実践的な調整案やアイデアを出す"コンサルティング"のような仕事を行うようになった<ref name="C_VOL37" />。また、日本ゲーム大賞(旧・CESA GAME AWARDS)の審査員を務めるようにもなった。
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2004年発売の『星のカービィ 鏡の大迷宮』には、企画内容やゲームの中身に対して、質や方針に問題がありそうな部分、カービィらしからぬ部分を指摘し、代替案を出すといった監修の役割で関わった。これの開発の半ばで桜井はフリーになったが、HAL研究所が桜井を雇うことで桜井は開発に参加し続けた<ref name="C_VOL48-49" />。これが桜井がクレジットされている最後の『カービィ』作品となっている。
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2004年発売の『星のカービィ 鏡の大迷宮』には、企画内容やゲームの中身に対して、質や方針に問題がありそうな部分、カービィらしからぬ部分を指摘し、代替案を出すといった監修の役割で関わった。これの開発の半ばで桜井はフリーになったが、ハル研究所が桜井を雇うことで桜井は開発に参加し続けた<ref name="C_VOL48-49" />。これが桜井がクレジットされている最後の『カービィ』作品となっている。
    
2003年の冬頃に桜井はキューエンターテイメントの水口哲也から「落ちモノパズル」「マルチタスク」「映像と音を豊かに」「開発人数は少ない」という条件でゲーム制作の依頼を受け<ref name="hisokani_5" />、『メテオス』を企画した。桜井は落ちものパズルゲームをプレイするのを苦手としているが、それにもかかわらずこれを企画することができたのは、この少し前にGDC2004での講演のために落ちものパズルゲームを含む様々なジャンルのゲームの面白さのロジックを整理していたおかげとしている<ref name="wakage_special_2" /><ref name="hisokani_6" />。なお、原案の考案は5分で済んだという<ref name="wakage_special_2" />。
 
2003年の冬頃に桜井はキューエンターテイメントの水口哲也から「落ちモノパズル」「マルチタスク」「映像と音を豊かに」「開発人数は少ない」という条件でゲーム制作の依頼を受け<ref name="hisokani_5" />、『メテオス』を企画した。桜井は落ちものパズルゲームをプレイするのを苦手としているが、それにもかかわらずこれを企画することができたのは、この少し前にGDC2004での講演のために落ちものパズルゲームを含む様々なジャンルのゲームの面白さのロジックを整理していたおかげとしている<ref name="wakage_special_2" /><ref name="hisokani_6" />。なお、原案の考案は5分で済んだという<ref name="wakage_special_2" />。